哲学対話②

こんにちは

すっかり暑くなって半袖の季節になりましたね。

個人的には湿気に蒸発してほしいです。

 

今回のゼミでは前回から引き続き哲学対話をしていき、テキストのC、Dの部分を参考に次の問いについて考えていきました。

  1. われわれは自分が持っているコミュニティに対して、他の人も同じように愛着を持ってもらいたいと思ってしまうのはなぜか?そして、その気持ちは持っていて良いものなのか、それとも制御すべきものなのか?(だとするとどうなるのか?)
  2. 怠け者のB君を、「人間として」尊敬しなさい、という教師の言葉は、なぜ問題なのか?
まず問1についてはそもそも愛着を別に持ってほしいわけではないという人ともってほしい人という意見がありました。私は愛着を持ってほしい派の人間で相手に共有したいという気持ちやその愛着を持っているものが優れているのだとアピールしたいという気持ちではないのかと考えましたが、逆にそもそも持ってほしいわけではない人は話題の種や共通点を見つけるものとしての認識で同じように好きであってほしいわけではなく、興味を持たなかったとしても、「この人は私と好みが違うんだ」と納得するという私が考えていなかった意見が出てきたのでとても興味深く面白かったです。(私は残念に思ってしまう)また、それを伝える相手との存在の近さも関係しているのではという意見も出てきて、存在が近い親しい人にはその人のことを思って勧めますが存在が近くなければまず勧めないというような意見も出ました。
話していく中で愛着を持っているものを否定されるとカチンとくる時があると言う話になりました。私も表にはあまり出しませんが頭の中ではカチンときていることよくあります...
ちょうどこの話の最中に須長先生が私たちのルームに来てくださり、どういった場合にこの感情を抱くのかという話になっていき、表面的な情報だけを見ての批判にカチンときてしまうということがわかりました。私の推しメンに対しての批判があったとするときに、表面的な情報だけで簡単に批判をしている人たちには腹が立ちますが、大枠を把握している同じようなファンからの批判は納得できるところもあるように感じたりすることが例として考えられました。
という議論をしている内に少しずつ質問から遠のいていきもう一度質問について考えていきました。
最終的に私たちがだした問1の考えとしては愛着を持ってほしいという気持ちを持つことはいいがそれを相手に押しつけることはいいことではなくあくまで私たちは情報を与えて、それに興味を持つかどうかは相手が判断することであって無理強いすることは良くないという結論になりました。
 
その後に残り少ない時間でしたが、問2についても考えていきました。
この問にもいろんな意見が出てきて、B君以外の人がなんで私たちはちゃんとしているのにちゃんとしていないB君を尊敬しないといけないの!という矛盾が生まれるのではないか、「人間として尊敬しなさい」という言葉だけでB君以外の子供が理解するには無理があるのではないのかといった意見が出ていきました。これは先生という大人の視点からの言葉ですが子供は子供の視点を持っていて大人の視点を理解すると言うことはなかなか難しいことだと思います。なので「人間として尊敬しなさい」という簡単な言葉ではなく大人が子供の視点に立ち、説得する必要があるのではない家と私は感じました。
ここで、メンバーが言った意見でとても気になったものがあります。それは先生がそのことを言うことがまずいけないのではないかというものです。
先生という立場が上の人間が他の子供に対してB君はこういう子なんだというレッテル張りをしてしまうことによって、周りの子達からの印象が決まってしまうというものです。まだ、大人の言うことをあまり疑わない子供達からすれば確かにそうだなと納得させられました。
 
最後に須長先生からソクラテス的窮状価値語パレーシアについての説明がありました。
これはソクラテスが問を続けていた結果大抵のものについて何も知らない(無知の知)に至り、わかっていたはずのものの「境界線」というものがわからなくなってしまうこけれどもそんなゲシュタルト崩壊を起こした世界の中で格闘することは精神の自由のために重要であるということでした。私も今回差別について考えてみて授業の中でも「境界線」がわからなくなりましたが、日常の中でもこれって差別なのかなと考えるようになりました。この問いをもっといろんなところでも持っていきたいと思います。
  • 価値語
これは単語と価値がセットになっているようなもので例えばパワハラであるという言葉にはパワーハラスメントという一部の上司が部下に取ってしまうような行動とそれは社会的に良くないんだという価値がセットになっています。議論の中でこういった価値語を使ってしまうと「境界線」が決まってしまっているために議論の枠を狭め、特定の結論に行き着いてしまう恐れがあります。
社会的にという理由だけでその言葉をすんなりと受け入れていた自分がいましたが、その言葉の意味にも問いを持って行きたいなと感じました。
  • パレーシア
元は古代ギリシアフーコーによって発見された「真実を語ること」という意味で自分自身の危険を顧みず、リスクを取って素直に語ることです。あくまで例えの話ですがいじめられる側にも問題があるのでは?といったものがこれに該当します。このように哲学には勇気が必要であり、リスクを取らなければなりません。
 
教養として3回にわたって哲学を学んでいきましたが、全ての考え方の根本にあるようなものが見えた気がしました。日常の中でもこれは哲学的にはどうなのだろうか、この人は一体何を考えているのかと自然と疑問も増えていったように思えます。何か強力なスキルを得たわけではないですが、考え方の枠が1つ増えて人生の幅が広がるような気がします。難しかったけど面白かった!
 
今回はここまで