哲学対話

こんにちは。

 今週のゼミでは先週から引き続いて「差別」について哲学を用いて学んでいきました。

また、今回のゼミでは哲学を専門にされている須長先生に来て頂き実践的な哲学を学ぶ機会に

 

まず最初に須長先生に哲学対話をする意味について教えて頂きました。

  • 哲学という営み
普通の学問は「知識の体系」といわれ、知識を生産する営みです。しかし、この知識の体系にはいったん身についてしまうとそうとしか思えなくなる「脱げない鎧」のような性質があります。さらに磁力の性質と似た排他性と親和性というものを持ち合わせており、自分の意見に近いものは吸収していきますが、そうでないものははいじょしてしまいます。例として、左翼右翼が挙げられましたが確かにこのコロナ禍のTwitter上ではそのような傾向がよく見られたような気がします。そのような既知の知識を揺さぶるものとして哲学があります。
  • 「問い」を立てること
哲学は答えを出すことよりも「問い」を立てることを大切にしています。
ではどのようなときに使っていくのかというと、たいていの人にとって当たり前であるものが疑問に思えたとき、特に何かにつまずいたときに人は哲学を使わざるをえないらしいです。
最近ふと就活のことなどを考えていると「そもそも何で働くんだっけ」とか「自分ってなにがしたいんだ」なんて考えることがあるのですが、まさに哲学といえるのではないでしょうか。
ですが哲学は数学のように答えが用意されているわけでもなく、すぐ導き出せるわけでもありません。加えて、疑問に思っていることは他の人にとっては当たり前なので共有の難しい孤独な戦いです。私も先程の疑問に答えが出ているわけではなくほとんど疑問を持っただけで終わってしまいます。
問いを立てることによってなじみのあるものを異化することができ、既知の知識に対して揺さぶりがかかります。実際に先週私たちがしたように差別について考えてみた前と後では「差別」というものに対しての捉え方が変わりました。
 
  • 対話のルール
今回やっていった「対話」にはルールがあって、まず対話というのは議論でも会話でもないということです。議論は違う意見同士が主張をしていき会話は意見に分かれることなくラフに話していきますが対話はちょうどその間にあるような存在で同じ方向性の話をしていますがどっちが正しいわけではありません。
その他にもゆっくりでもいいから自分の言葉で話すこと、相手の中にあるものを一緒に探ること、理解できなかったところはもう一度お願いすること、自分の意見が揺さぶられることを恐れないこと、結論を出さないのは安全な殻(逃げ?)にいると言うことになること、しかし結論を急ぎすぎず素潜りのように何度も探ることなどのルールの上で対話をやっていきました。
 
今回の問い
  1. なぜわれわれは「なぜ差別していると」言われたくないのか?
  2. 差別をしたくない場合どうすればいいか?そもそもどうして差別してしまってもいいのか(だとしたら、なせ世の中は「差別してはいけない」と言われているのか)
 
 まず1のなぜ「差別していると」言われたくないのかということについて考えていきました。やはりテキストの文章にも書いてあったように、周りから嫌われたくない、不快に思われたくないという気持ちからきているのではないかと考えました。でもそもそも「差別」って何なんだろうという議論になってきました。明らかに偏った負の気持ちを相手に伝えることは差別とわかりますが不快と感じたときにそれは差別なのかというどこからが差別のラインなのかという線引きが難しく、少し話が行き詰まりました。
2の問いに対してはやはりテキストと同様、心の内に秘めるしかないのではないのかという意見にまとまりました。そしてそもそもなぜ差別をしてはいけないのかという問いに対してはよい子でいるという世の中の定義やその後の自分の人生のためなどの意見が出て人それぞれ違う考えが見られました。
 
対話を終えて私なりに考えて見たのですが、問1も2も自分のためではないのだろうかと考えました。1に対しては仮に差別をしていると言われてしまうとテキストにも書いてあったとおり社会的に抹殺されることになります。差別をしていると言われたくない要因の一つとして自己防衛ではないのかと考えました。2のそもそも差別なぜ差別をしてはいけないのかと言う問いに対してもその後の自分の人生に影響してきたり、自分に返ってきたりする可能性から自分自身を守るためではないかと考えました。
人間だれしも自分が大切なところがあるはずです。
もちろんこれが差別をしない理由の全てではないと思いますが、その理由の1つとしてあるのではないでしょうか。
 
 
今回はここまで