哲学 わけわかめ

こんにちは

今回のゼミでは教養を学ぶ1回目として「差別」というテーマで哲学を学んでいきました。

いくつかのグループに分かれて文を読み、自分が気になったところなどに印をつけてメンバー間で共有をしていったのですが、文の内容がとっても難しかったです...

まず大前提として「差別」というものは絶対に許されていいものでないと私は考えます。現在アメリカでも白人警官が無抵抗の黒人男性を押さえつけ殺害したとして大きな問題となっていて、悲しい負の連鎖が起きています。

早速感想、意見を綴っていきます。

 

 Aの部分で気になったところは冒頭の

われわれの心に住まう悪意をことごとく消去すべきなのだろうか?

というところです。

私は悪意がことごとく消去されて世界は何か宗教じみていて怖いなと感じたので排除するべきではないと思いました。なぜかというと、その後の文章で

 純粋に(さまざまな理由で)気に入らない他人に禍をもたらそうと企む場合もある。

と書かれているように行動に移すまではいかなくとも、他人を恨んだり、憎んだり、妬んでしまう感情がどうしても湧いてきます。しかし、反対に善意というものも私たちの中にはあります。悪意をうまくコントロールして自分の善意に向き合えるかが大切なのではないでしょうか。

あらゆる悪意とその発露が根絶された理想社会を掲げて現状を嘆くのではなく、自身の心に住まう悪魔と戦い続けること、その暴走を許さずそれをしっかり制御すること、こうした努力のうちにこそ生きる価値を見つけるべきなのだ。人間の悪意を一律に抹殺することを目標にしてはならない。

誤解を恐れずに言えば、悪意のうちにこそ人生の豊かさがある。それをいかに対処するかがその人の価値を決めるのである。

これには何の反論もありません。これが正解と決めつけることは良くないかもしれませんが全くこの通りだと思います。

 

 次はBです。

われわれは事実としてある人に合理的理由あるいは非合理的理由からり不快を感じてしまうものであり、それはどうすることもできない。 

 という一文がありますが、合理的理由から生まれる不快は自分がなぜ不快であるか論理的に認識しているためにどうにかすることは難しいかもしれませんが、非合理的理由はおそらく、妬みなどの自分の感情面のことが多いのではないでしょうか。ここは捉え方によってどうにかすることができるように思えました。例えば数量限定の商品を自分が手に入らず、嫌いな人は手に入れたとします。その人のことを妬むでしょうがそこで、あいつと同じものを買わなくて良かったと割り切ることもできるのではないでしょうか。

⑴個人の快・不快を統制してはならない
⑵だが、不快の無制限の発露、を許してはならず何らかの統制をするべきである。
この対立する2つの命題にはとても納得がいきました。
自分が何を感じようが、どう思おうがそれは自由です。
ですが、それを全て口に出していい訳がありません。何もかも自由に発言、ひょうげんをしていると、時に悲しい出来事を生んでしまいます。私たちには感情がありますが、それと同時に理性というものもあります。荒ぶる感情に対して理性でどう対処するかが大切なのではないでしょうか。また、1つの解決らしきものとして不快を感じていないように振る舞うべきであるというものがありますが不快の原因によってはこれは解決の方法ではないと思います。自分が納得できる理由の不快に関してはしっかりと嫌だ、おかしいと言っていくことが大切なのではないでしょうか。最後の方に書いている通り考え続かなければいけないと思いました。
不快を表出ししないように賢く振る舞っている。なぜならそう振る舞わないと身の危険を招くからであり、社会的に葬り去られるからである。
 この部分には自分ももしかしてこれを恐れていたのかな...と考えさせられました。公認された被差別者、社会的制裁関係なく自分自身の考えで差別をしてはいけないということを考える必要があるなと感じました。
 
 次はCについてです。 
われわれは、ある共同体に所属していることによって、身の安全を得るのであり、心の落ち着きを得る。
まさに人間が社会的動物である所以だなと感じました。そしてアイデンティティは様々な集団に属している束が集まってできているという表現は私が思っていたことと真逆でしたが、どこな納得できるような内容でした。
こうしたことがあってはならないとすら感じている鈍感な(おうおうにして)善人が少なくない。

 ここの郷土愛の話にはとても納得させられました。

私も俗に言う「九州男児」でさらには「薩摩隼人」ですが、確かに自分自身でも郷土愛は強いと感じます。田舎とか言って自虐することもありますが、他県の人にけなされるとどうもイラッとしてしまうことがたまにあります。自分がけなすことは許せても他人にとやかく言われることは嫌だなんてなんとも傲慢...

私は郷土愛がない人に対して特に何も感じないと言いたいところでしたがよく考えてみると口には出さずともどちらかといえばここで書かれている人たちに近かったりするのかもしれません。

 

結婚して子供が生まれたとき、みなの祝福を期待し「大きな顔をして」報告するとき、あなたはすでに(潜在的)加害者なのである。

家族愛の話もまた深く考えさせられる内容でした。

私たちが正統派である、常識であるという確信から当たり前のようにお祝いなどをしていますが、されている本人達の事情を詳しく知っている訳では当然ありません。かといってお祝いしないというわけではありませんが周りの情報を鵜呑みにするのではなく、その情報を自分でしっかりと理解、判断し相手に気持ちを伝えることが大切なのかと思いました。

常識から疑って物事を考える、まさに哲学的な考え方ですね。

 

 最後はDについてです。

意識に基づく差別のばあい、その意識を変えるには、意識というもっともやっかいな相手を敵に回さなければならないからである。

意識と戦うことは本当に難しいことだと思います。実体験でも本や映画などの作品や言葉を見たり聞いたりして頭では「○○すごいな!俺も見習おう!」とわかっていてもそれを身につけさせ意識させるのは本当に難しいです。その日だけで終わってしまうこともあるので、継続的に習慣をつけ意識に埋め込んでいくことが大切ではないかなと思いました。

成績も悪く、素行も悪く、怠け者であるB君を、それでも「人間として」尊敬しなさい、という教師の言葉は、はたしてどのくらい子供たちの心に訴えうるのか、真正面から考察する必要があるように思う。 

私の好きなアニメの中に登場するキャラクターがビスマルク

愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ。

という言葉を言っていますが、子供というのは愚者であるかはさておき、経験によって学んでいき、大人に近づくにつれて経験だけでなく先人達の知識から学ぶことが多いと私は思います。なので、A君であろうとB君であろうと子供というのは経験から学んでいくもので、A君が心の中でB君を軽蔑していてもそれを表に出さなければ問題は起きないでしょうし、いずれ大人になるにつれてA君も軽蔑と言うことが愚かであると気付くのではないでしょうか。私も子供の頃は嫌いなやつの嫌なとこばかり見ていましたが、今はいいところを見ようと努力しています。

 

全文通して感じたのはやはり中の自分、潜在的な自分とどう戦うのかということが大切になってくるのかと思いました。

正直、理解しきれていないところも多々ありますが、久しぶりにこういった頭の使いかたをして新鮮でした。

自分でも書いてるうちに何かいてんのかわかんなくなったりしたりなんかして、まさにこれが哲学だなといったところですね...

なんかもういろいろゲシュタルト崩壊です。

砂糖いっぱい取りたいと思います。

 

 

今回はここまで