古典② ~新海誠作品に学ぶ~

こんにちは

気がついたら2020年ももう半年が過ぎました。

大学生活は過ぎていくのが早いです。

 

今回は新海誠監督の作品「君の名は」を題材に古典を学んでいきました。

「君の名は」には多くの部分で古典を引用しているところがあるらしく、公式サイトでも古典を意識したことが明かされているようです。

 知らない者同士が、お互いに知らない場所で生きていて、もしかしたら二人は出会うかもしれない存在。現実は会えない、でも、何らかのカタチで触れ合う。
単純だけれど、そんな物語を作りたいという事が今作の動機でした。良く考えてみると、それは、僕たちの日常そのものだと思います。今まさに地方の田舎町で生活している女の子も、将来、都会に住んでいるある男の子と出会うかもしれない。その未来の物語を小野小町の和歌『思ひつつ寝ればや人の見えつらむ 夢と知りせば覚めざらましを』(訳:あの人のことを思いながら眠りについたから夢に出てきたのであろうか。夢と知っていたなら目を覚まさなかったものを)を引っ掛かりとして、アニメーションのフィールドの中で描く事が出来ると思いました。

 このように「とりかへばや物語」と小野小町の和歌にも着想をえているようです。

とりかへばや物語」は兄妹を「とりかえたいなあ」という意味の入れ変わって生活をする物語で成立をした後に修正をされた部分があり、原本は残っていません。その理由として昔の人たちが物語を読むときは、現在のように印刷の技術がなかったために手書きで写していたようです。その際、読み手の解釈で書いていくところがあり、どんどんアレンジが加えられて語り継がれていったため修正が加えられた状態で現存しているようです。現代の二次創作と通じる部分がありますね。

小野小町は当時としては前衛的な詩人であったらしく評価はされずとも一目置かれていた歌人であったようで、その小野小町の作品である「夢三部作」の1つ目に

思ひつつ 寝ればや人の 見つらむ 夢と知りせば 覚めざらましを

という歌があります。

意味は

あの人のことを思いながら眠りについたから夢に出てきたのでしょうか。夢と知っていたならば目を覚まさなかったものを。

というもので今私たちが夢に誰かが出てきたときに考えるようなことです。

しかし、昔の人たちにとってこの解釈は違っており、夢に思い人が出てきたときに夢に相手が出てくるのは相手が自分のことを思っているからという解釈だそうです。これには驚きました。現代とは真逆の解釈ですよね。それでも当時の常識であった解釈を疑って新たな解釈を生み出した小野小町はすごいと思います。

 

君の名はとその他の男女が入れ変わるストーリーに共通している部分として入れ替わった後に周りの人に変に思われ仕草に戸惑う点、そして最終的には社会的に作られたもとの性に戻ることが挙げられました。

違う点としては入れ替わった物同士が恋愛をするというところが挙げられています。新海監督は入れ替わりという表現はとりかへばや物語を引用し恋愛の部分では小野小町の歌を引用していったのだと思いました。

 

最後に私たちが古典を学ぶ理由が例としていくつか挙げられた中に今の常識を疑うというものがあり、哲学でも鎧を脱ぐことの重要性を学びましたが、まさに小野小町が行ったように当たり前を疑って自分で考えるということがやはり大切であるなと再確認できました。

 

今回の課題は、

物語を引用しながら表現したい内容を考える

ということで前に一度見たことのあった同じ新海誠監督の「言の葉の庭」という作品を見直しました。

この作品の中では主人公の高校生とヒロインが登場してきます。

主人公は雨が降ったときに庭園のベンチで時間を潰していたのですがあるときヒロインの女性がそのベンチに腰掛けており、雨の日のベンチを舞台に次第に心を通じ合わせていきます。

そして、初めて会った時にヒロインが何者かわかっていない主人公に対して

鳴る神、のす少しと響(とよ)みて、さし曇り、雨も降らぬか、君を留めむ

 という和歌を主人公に言って立ち去ります。

作品の内容にかぶらないように和歌だけで調べてみるとこの歌は万葉集の第十一巻に出てくる柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)の歌で

雨が降ったらここにに留まってくれるだろうか。

という意味を持っています。

柿本人麻呂は詳しい生没年、経歴が不詳ながらも多くの作品が万葉集に収められている偉大な歌人のようです。

これをみてヒロインは一体どういう気持ちでこの台詞を言ったのだろうと思いました。

ヒロインは古典の教師で、そのことに主人公は気付いておらず、後に発言の真意として古典の教師と気付かないかなと思って発言したとヒロインは言っていますが、僕は果たして本当にそれだけの意味であったのかなぁなんて感じました。

そこに留まっていたかったという気持ちが少しはあったからその歌が出てきたようにも思えます。

そして、言われた当時は意味がわからなかった主人公ですが、物語の終盤で

鳴る神の、少し響(とよ)みて、降らずとも、我(わ)は留まらむ、妹(いも)し留めば

という最初の歌の返歌をヒロインに対して返します。

この歌の意味は

雨なんか降らなくても、ここにいるよ

となんともキザな返答ですね。

ですが主人公がこの台詞を言っているときは答え合わせとしての返歌だけでなく、主人公の本心からも言っているように感じました。

この作品はBGMが雨の音だけで描かれている場面が多く「雨」が大きなテーマとなっていると思うのですが「雨」という題材を決めた後にこの歌を見つけ引用することにしたのかそれともその逆なのか、個人的に気になります。今回横山先生がおっしゃっていたと通り「雨」は恋愛において重要であったのだなとも感じました。

最後に私が感じたこの作品の表現したい内容として、新海誠監督はこの「雨」に関する歌で限りある時間の中での幸せというものを表現したいのかなと思いました。そして雨は限りある時間ですがまた降ってくる、また何度でも会うことができると言うことを伝えたかったのかなとも感じました。

とてもいい作品なので是非皆さんにも見て頂きたい!

(ちなみにこの作品に出てくるヒロインはチラッと君の名はにも出演しています!)

にしても新海誠監督は古典にインスピレーションを受けている部分が多いのでしょうか。そこの部分もとても気になりました。

 

前期も終盤にさしかかり課題が密ですが頑張っていきましょう!!!

 

今回はここまで