古典③ ~続編を考えてみよう~

こんにちは

前回雨のことについて書きましたが、部屋の中で雨が降り出すと当分雨のことは考えたくない気分でございます。

 

今回は教養回の古典最終回ということで、源氏物語の続編について学び実際に自分たちでも続編を考えてみました。

 

源氏物語は合計3部作で、1部、2部で光源氏のお話が終わり、3部は光源氏がいなく合った後の物語でNARUTOが終わった後のBORUTO的な感じでしょうか。登場人物は光源氏の子とされているが本当は不倫相手の子である薫、そして光源氏の孫である匂宮の二人が浮舟という女性を奪い合う物語だそうです。話を聞いていると今時のドラマよりもドロドロしててえげつないな...と感じました。物語の流れでいくと浮舟は二人に求婚されたことに対して思い悩み入水自殺を図ったようです。これまたどぎついストーリー...

しかし死にきることができず流れるついた寺で出家し外から遮断された生活を送るようになります。そんな中で薫が浮舟が生きているということを耳にして、浮舟の弟に当たる人物に手紙を私に行かせなんとか薫と会おうとします。しかし浮舟は前の自分に戻ってしまうという理由から家族にも返事をしませんでした。そんなすっきりしない感じで宇治十帖は終了します。

そんな結末に納得できなかった読者が今度は「山路の露」という作品を書いたようです。

 

というところで今回はこの「山路の露」を私たちだったらどのように作るかということを考えていきました。

まず、続きを見たい読者が書くので話が展開していくと考えて、男の登場人物を追加して作りました。その男は出家先にいる男で密かに浮舟に思いを寄せそして浮舟も密かに心を寄せるという展開を作りました。ちなみに薫は若干ストーカー気味に手紙を送りまくってますがこの男が全て破り捨てています。時間の関係であまりうまく話はまとまりませんでしたが、三部同様すっきりしないような結末になりましたが続編を考えることの難しさを感じました。今回は割と自由に考えていきましたがファンである読者が続編を作るとなると元となる作品の世界観であったり、結末の仕方など本当に悩むだろうなと思いました。私が好きな欅坂46も新しいメンバーが加入した際に先輩達が作り上げたものを壊してしまいそうで怖いとインタビューで語っていて、できあがったイメージを保つことも変えることも本当に大変だと思います。

リアルな第四部としては誰とも結びつかないという結末は変わらないらしく、薫と再開はするそうですが何も起きないようです。

なぜ変わらないのにもかかわらず書いたのかと言うことを考えていくとそれだけ前の源氏物語がすごいとしたいだったり、読者に対しての救いであったりといろいろな見方ができます。直接聞くことはできませんが相当思い悩んだのではないでしょうか。

 

そして最後にもう一度私たちが古典を学ぶ意味ということを考えていきたいと思います。

僕はやはり自分という存在を豊かにするために学んでいくのではないのかなと考えました。昔の人たちが考えた思想や物語に触れることによって新しい気づきを得て、自分という世界が広がっていくようなそんなことじゃないかなと思いました。

太宰治は日常の生活に役立たないような勉強こそ、将来、君たちの人格を成長させるのだ。大事なのは覚えることではなくカルチベート(才能などをみがく、高めるetc)することだと言っています。

まさにこのような意味で自分をより豊かにしていくには必要な学問だと思います。

 

 

三回にわたって古典を学んでいきましたが、これまでの文章を解読するというイメージからなぜ筆者がそのような表現を使ったのか、登場人物達の細かい心情、当時の読者考え方などを学ぶことができて古典の見方が変わりました。

前期はもうすぐ終わってしまいますがもっといろんな教養にも触れてみたいなと感じました!

 

 

今回はここまで

 

古典② ~新海誠作品に学ぶ~

こんにちは

気がついたら2020年ももう半年が過ぎました。

大学生活は過ぎていくのが早いです。

 

今回は新海誠監督の作品「君の名は」を題材に古典を学んでいきました。

「君の名は」には多くの部分で古典を引用しているところがあるらしく、公式サイトでも古典を意識したことが明かされているようです。

 知らない者同士が、お互いに知らない場所で生きていて、もしかしたら二人は出会うかもしれない存在。現実は会えない、でも、何らかのカタチで触れ合う。
単純だけれど、そんな物語を作りたいという事が今作の動機でした。良く考えてみると、それは、僕たちの日常そのものだと思います。今まさに地方の田舎町で生活している女の子も、将来、都会に住んでいるある男の子と出会うかもしれない。その未来の物語を小野小町の和歌『思ひつつ寝ればや人の見えつらむ 夢と知りせば覚めざらましを』(訳:あの人のことを思いながら眠りについたから夢に出てきたのであろうか。夢と知っていたなら目を覚まさなかったものを)を引っ掛かりとして、アニメーションのフィールドの中で描く事が出来ると思いました。

 このように「とりかへばや物語」と小野小町の和歌にも着想をえているようです。

とりかへばや物語」は兄妹を「とりかえたいなあ」という意味の入れ変わって生活をする物語で成立をした後に修正をされた部分があり、原本は残っていません。その理由として昔の人たちが物語を読むときは、現在のように印刷の技術がなかったために手書きで写していたようです。その際、読み手の解釈で書いていくところがあり、どんどんアレンジが加えられて語り継がれていったため修正が加えられた状態で現存しているようです。現代の二次創作と通じる部分がありますね。

小野小町は当時としては前衛的な詩人であったらしく評価はされずとも一目置かれていた歌人であったようで、その小野小町の作品である「夢三部作」の1つ目に

思ひつつ 寝ればや人の 見つらむ 夢と知りせば 覚めざらましを

という歌があります。

意味は

あの人のことを思いながら眠りについたから夢に出てきたのでしょうか。夢と知っていたならば目を覚まさなかったものを。

というもので今私たちが夢に誰かが出てきたときに考えるようなことです。

しかし、昔の人たちにとってこの解釈は違っており、夢に思い人が出てきたときに夢に相手が出てくるのは相手が自分のことを思っているからという解釈だそうです。これには驚きました。現代とは真逆の解釈ですよね。それでも当時の常識であった解釈を疑って新たな解釈を生み出した小野小町はすごいと思います。

 

君の名はとその他の男女が入れ変わるストーリーに共通している部分として入れ替わった後に周りの人に変に思われ仕草に戸惑う点、そして最終的には社会的に作られたもとの性に戻ることが挙げられました。

違う点としては入れ替わった物同士が恋愛をするというところが挙げられています。新海監督は入れ替わりという表現はとりかへばや物語を引用し恋愛の部分では小野小町の歌を引用していったのだと思いました。

 

最後に私たちが古典を学ぶ理由が例としていくつか挙げられた中に今の常識を疑うというものがあり、哲学でも鎧を脱ぐことの重要性を学びましたが、まさに小野小町が行ったように当たり前を疑って自分で考えるということがやはり大切であるなと再確認できました。

 

今回の課題は、

物語を引用しながら表現したい内容を考える

ということで前に一度見たことのあった同じ新海誠監督の「言の葉の庭」という作品を見直しました。

この作品の中では主人公の高校生とヒロインが登場してきます。

主人公は雨が降ったときに庭園のベンチで時間を潰していたのですがあるときヒロインの女性がそのベンチに腰掛けており、雨の日のベンチを舞台に次第に心を通じ合わせていきます。

そして、初めて会った時にヒロインが何者かわかっていない主人公に対して

鳴る神、のす少しと響(とよ)みて、さし曇り、雨も降らぬか、君を留めむ

 という和歌を主人公に言って立ち去ります。

作品の内容にかぶらないように和歌だけで調べてみるとこの歌は万葉集の第十一巻に出てくる柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)の歌で

雨が降ったらここにに留まってくれるだろうか。

という意味を持っています。

柿本人麻呂は詳しい生没年、経歴が不詳ながらも多くの作品が万葉集に収められている偉大な歌人のようです。

これをみてヒロインは一体どういう気持ちでこの台詞を言ったのだろうと思いました。

ヒロインは古典の教師で、そのことに主人公は気付いておらず、後に発言の真意として古典の教師と気付かないかなと思って発言したとヒロインは言っていますが、僕は果たして本当にそれだけの意味であったのかなぁなんて感じました。

そこに留まっていたかったという気持ちが少しはあったからその歌が出てきたようにも思えます。

そして、言われた当時は意味がわからなかった主人公ですが、物語の終盤で

鳴る神の、少し響(とよ)みて、降らずとも、我(わ)は留まらむ、妹(いも)し留めば

という最初の歌の返歌をヒロインに対して返します。

この歌の意味は

雨なんか降らなくても、ここにいるよ

となんともキザな返答ですね。

ですが主人公がこの台詞を言っているときは答え合わせとしての返歌だけでなく、主人公の本心からも言っているように感じました。

この作品はBGMが雨の音だけで描かれている場面が多く「雨」が大きなテーマとなっていると思うのですが「雨」という題材を決めた後にこの歌を見つけ引用することにしたのかそれともその逆なのか、個人的に気になります。今回横山先生がおっしゃっていたと通り「雨」は恋愛において重要であったのだなとも感じました。

最後に私が感じたこの作品の表現したい内容として、新海誠監督はこの「雨」に関する歌で限りある時間の中での幸せというものを表現したいのかなと思いました。そして雨は限りある時間ですがまた降ってくる、また何度でも会うことができると言うことを伝えたかったのかなとも感じました。

とてもいい作品なので是非皆さんにも見て頂きたい!

(ちなみにこの作品に出てくるヒロインはチラッと君の名はにも出演しています!)

にしても新海誠監督は古典にインスピレーションを受けている部分が多いのでしょうか。そこの部分もとても気になりました。

 

前期も終盤にさしかかり課題が密ですが頑張っていきましょう!!!

 

今回はここまで

 

古典①

こんにちは

日に日に増していく課題をどう対峙してやろうか考えている内に一週間経ってしまっている今日この頃でございます。

 

今回のゼミでは教養の2回目で横山先生をお招きして古典が始まりました。

古典というとなんたら活用とかのめんどくさいことを思い出したりますが、高校生の時に学んだ「人間万事塞翁が馬」が私の中では一番印象に残っていて、良いときもあれば悪いときもあるという古典の読み方などの枠を超えた考え方などを学んでいました。

まず、一番最初に出てきた問いが

  • 古典は本当に必要なのか
という問いです。
この問いを聞いて必要ではないかもしれないけれども不必要ではないかなと感じました。私が高校時代に学んだ「人間万事塞翁が馬」のように人生を豊かにするまさに教養の役割を果たしていると思います。現在私が受講しいている倫理学でも昔の中国の思想家達が考えた古典を元に人間のあり方などについて学んでいますが、非常に興味深いです。そんなことから人が成長や変化をしていくために必要な物の1つではないのかなと思いました。
授業の中で横山先生は日本のアイデンティティを教えるために意図的に教科書に入っているときもあれば、現在と昔を比べ批判的思考を養うためでもあるということをおっしゃっていました。
確かに現在倫理学の授業を受けていて、私たちが考えている常識というものを揺さぶられ、まさに哲学的な思考で物事を考えることができます。
例えば性悪説を説いている荀子に対して講義を受講するまでは人間は元々悪であるということを言っているだけの人と思っていましたが、しっかりと学んでみると人間の本性には生まれつき欲望や感情がありそれを放置し続ければ争いを起こすので教育を行えば後天的に善なる行いができるようになるということを説いていて、そうかもしれないと考える私もいればそれを疑う私も出てきたりしています。
このようなことからも古典は不必要ではないし、絶対に必要な物とも言い切れないのかなと感じました。
でもこれは古典だけでなく他の教科でも当てはまりそうですね。
 
そしてその次に「徒然草」の中にでてくる

すずりに向かひて

という部分は一体どういうことを表しているのかという部分の解釈は時代ごとに異なっており定まることがないそうです。

ではどうすればここの部分を考えることができるのかという問いが出てきて私は実際に同じ状況になってやってみると考えました。本当のやり方としてはその作者の他の作品の同じ表現がないか、前の時代の人がどのような表現の使い方をしたかという方法があるらしいです。やっぱり昔の人も何かに影響されてそれをオマージュしたりいていたのですね。

ここで米津玄師さんの「Lemon」を例にして引用が説明されたのですがまさかここでLemonが出てくるとは想像もしていませんでした笑

この「Lemon」の歌詞には高村光太郎さんの「Lemon哀歌」に通ずる部分が多く、「光る」であったり「切り分けた果実の片方~」など重なる点も多く本人もインタビューでレモン哀歌の世界観を意識したところがあると語っているそうです。

個人的にはここで語られていた元は人の死を描くことから「Memento」というタイトルにしようとしていたというところに興味が湧きました。おそらくラテン語の「」死を忘るなかれ」という意味のメメント・モリからきていると思うのですがこの単語私の大好きなガンダム00という作品でも出てきていたのでそのことばっか考えてました笑

ガンダムで出てくるメメント・モリは簡単に言うと宇宙から一国を滅ぼすことができるレーザー兵器の名前なのですが制作陣に「死を忘るなかれ」という意図があったのかと考えてみると、まさに現代作品も影響されている部分があるんだなと感じました。

すずりに向かひては万葉集などでもみられましたが源氏物語でもみられたらしくその表現とほぼ完全に一致しているらしく古典の研究者の方々からするとやりやがったという印象なのだとか。

 

とまあこんな感じで古典のことを学んでいきましたが今はとっくに存在しない人がどのような気持ち、経緯でその表現に至ったのかを考えることはとても難しいけれども面白くも感じましたし、米津玄師さんのヒット曲の中にも古典が隠れていたりしてとても興味深かったです。

次回は大ヒットを記録した「君の名は」を題材に学んでいくそうなので楽しみ!

(ps.僕は大ヒットしたことを毛嫌いして数年後の正月特番で始めて見ました。)

 

 

今回はここまで

ゼミ 振り返り中間回

こんにちは

今回のゼミは前回まで学んだ哲学の振り返りと問いについていつも通りグループ2つに分かれて考えていきました。

 

前回の振り返りとしては対話によって結論を出しはするがそれは区切りであって終わりではなく考え続けることが大切であるということ、否定ではなく批判的な考え方で物事の前提を考えていくということによって固定観念から抜け出した考え方ができるということ、「思考のアレ化」に気をつけるということがありました。

思考のアレ化は「アレ」という簡単な言葉で片付けてしまうことによって言葉の意味合いを考えずに発言してしまうことです。しっかりとその言葉の意味を自分自身で理解した上で発言することが重要になってきます。

私も最近日常の中で言葉の意味であったり、行為の意味などをよく考えているのでこのまま考え続けていきたいです。

 

今回の問いは

  • 経験や体験を通じて成長できる人ってどんな人
でした。

グループに分かれてまずどんな人がそうなのか挙げていったところ

  • フィードバックをする人
  • 人のせいにしない人(自分のことのように考えることができる)
  • 経験、体験している状況を楽しめる人
  • 目的を持って行動している人
  • 素直な人(経験を拒否せずに素直に飲み込む力)
など他にもいろんな意見が出てきました。
何かをするときにやる気がない人やモチベーションが低い人はもちろんあまり成長しないと思いますし、自分の実体験でもモチベーションが強かったもの、楽しかったことなどは吸収が早く成長していたと思います。
個人的にはなぜそうなったのかを考えられることができる人が成長できる人だと思いました。部活などをしていてうまいプレイヤー達は今の自分に満足せずに常に変化をしていた記憶が私の中にあるのですが、その人達がなぜ変化、成長していたのかは今の自分のどこが悪いのかということを分析して、それを改善、良くするために新しいことを試しダメだったらその失敗を分析してまた新しいことを試していくことの繰り返しをしていたからだと思います。私自身テニスのサーブのスピードなでないことが短所だったのですが自分の体の使い方などを動画などで分析して改善を重ねスピードを上げることができました。
そして議論をしていてやはり感じたのがそもそも成長って何だろうというものです。
哲学ですねぇ~
考えていったところ
  • 経験を積む前よりも良い方向に変化すること
  • 前できなかったことができるようになること
  • 限界が広がる
などの意見が出てきました。
変化という言葉は前の自分とは良い悪い関係なく違っていることだと思いますが成長は確かに良い方向へと向かっていると思います。
また限界が広がるというのもしっくりくるなと感じました。
まさに体が成長するのと同じように内面的なところでも心が大きくなっていくような気がします。
成長の話をしていて人によって成長の振り幅も感じ方も違い、他人からしたら小さいことでも自分にとっては大きいことだったりその逆のこともあるという話になり数値的なものでは客観的な成長の指数がでますが、それ以外のことでは人によって違うのだなということに気付きました。
 
最終的な結論としては人が経験や体験によって成長するには、人それぞれ違ういろいろな成長の仕方や要素があり、その要素が多いほど成長の幅も広がっていくのではないのかという意見になりました。
 
次回からは教養の2回目の古典が始まります!
哲学の時のようにしっかりと吸収していきたいです!!
 
今回はここまで

哲学対話②

こんにちは

すっかり暑くなって半袖の季節になりましたね。

個人的には湿気に蒸発してほしいです。

 

今回のゼミでは前回から引き続き哲学対話をしていき、テキストのC、Dの部分を参考に次の問いについて考えていきました。

  1. われわれは自分が持っているコミュニティに対して、他の人も同じように愛着を持ってもらいたいと思ってしまうのはなぜか?そして、その気持ちは持っていて良いものなのか、それとも制御すべきものなのか?(だとするとどうなるのか?)
  2. 怠け者のB君を、「人間として」尊敬しなさい、という教師の言葉は、なぜ問題なのか?
まず問1についてはそもそも愛着を別に持ってほしいわけではないという人ともってほしい人という意見がありました。私は愛着を持ってほしい派の人間で相手に共有したいという気持ちやその愛着を持っているものが優れているのだとアピールしたいという気持ちではないのかと考えましたが、逆にそもそも持ってほしいわけではない人は話題の種や共通点を見つけるものとしての認識で同じように好きであってほしいわけではなく、興味を持たなかったとしても、「この人は私と好みが違うんだ」と納得するという私が考えていなかった意見が出てきたのでとても興味深く面白かったです。(私は残念に思ってしまう)また、それを伝える相手との存在の近さも関係しているのではという意見も出てきて、存在が近い親しい人にはその人のことを思って勧めますが存在が近くなければまず勧めないというような意見も出ました。
話していく中で愛着を持っているものを否定されるとカチンとくる時があると言う話になりました。私も表にはあまり出しませんが頭の中ではカチンときていることよくあります...
ちょうどこの話の最中に須長先生が私たちのルームに来てくださり、どういった場合にこの感情を抱くのかという話になっていき、表面的な情報だけを見ての批判にカチンときてしまうということがわかりました。私の推しメンに対しての批判があったとするときに、表面的な情報だけで簡単に批判をしている人たちには腹が立ちますが、大枠を把握している同じようなファンからの批判は納得できるところもあるように感じたりすることが例として考えられました。
という議論をしている内に少しずつ質問から遠のいていきもう一度質問について考えていきました。
最終的に私たちがだした問1の考えとしては愛着を持ってほしいという気持ちを持つことはいいがそれを相手に押しつけることはいいことではなくあくまで私たちは情報を与えて、それに興味を持つかどうかは相手が判断することであって無理強いすることは良くないという結論になりました。
 
その後に残り少ない時間でしたが、問2についても考えていきました。
この問にもいろんな意見が出てきて、B君以外の人がなんで私たちはちゃんとしているのにちゃんとしていないB君を尊敬しないといけないの!という矛盾が生まれるのではないか、「人間として尊敬しなさい」という言葉だけでB君以外の子供が理解するには無理があるのではないのかといった意見が出ていきました。これは先生という大人の視点からの言葉ですが子供は子供の視点を持っていて大人の視点を理解すると言うことはなかなか難しいことだと思います。なので「人間として尊敬しなさい」という簡単な言葉ではなく大人が子供の視点に立ち、説得する必要があるのではない家と私は感じました。
ここで、メンバーが言った意見でとても気になったものがあります。それは先生がそのことを言うことがまずいけないのではないかというものです。
先生という立場が上の人間が他の子供に対してB君はこういう子なんだというレッテル張りをしてしまうことによって、周りの子達からの印象が決まってしまうというものです。まだ、大人の言うことをあまり疑わない子供達からすれば確かにそうだなと納得させられました。
 
最後に須長先生からソクラテス的窮状価値語パレーシアについての説明がありました。
これはソクラテスが問を続けていた結果大抵のものについて何も知らない(無知の知)に至り、わかっていたはずのものの「境界線」というものがわからなくなってしまうこけれどもそんなゲシュタルト崩壊を起こした世界の中で格闘することは精神の自由のために重要であるということでした。私も今回差別について考えてみて授業の中でも「境界線」がわからなくなりましたが、日常の中でもこれって差別なのかなと考えるようになりました。この問いをもっといろんなところでも持っていきたいと思います。
  • 価値語
これは単語と価値がセットになっているようなもので例えばパワハラであるという言葉にはパワーハラスメントという一部の上司が部下に取ってしまうような行動とそれは社会的に良くないんだという価値がセットになっています。議論の中でこういった価値語を使ってしまうと「境界線」が決まってしまっているために議論の枠を狭め、特定の結論に行き着いてしまう恐れがあります。
社会的にという理由だけでその言葉をすんなりと受け入れていた自分がいましたが、その言葉の意味にも問いを持って行きたいなと感じました。
  • パレーシア
元は古代ギリシアフーコーによって発見された「真実を語ること」という意味で自分自身の危険を顧みず、リスクを取って素直に語ることです。あくまで例えの話ですがいじめられる側にも問題があるのでは?といったものがこれに該当します。このように哲学には勇気が必要であり、リスクを取らなければなりません。
 
教養として3回にわたって哲学を学んでいきましたが、全ての考え方の根本にあるようなものが見えた気がしました。日常の中でもこれは哲学的にはどうなのだろうか、この人は一体何を考えているのかと自然と疑問も増えていったように思えます。何か強力なスキルを得たわけではないですが、考え方の枠が1つ増えて人生の幅が広がるような気がします。難しかったけど面白かった!
 
今回はここまで

哲学対話

こんにちは。

 今週のゼミでは先週から引き続いて「差別」について哲学を用いて学んでいきました。

また、今回のゼミでは哲学を専門にされている須長先生に来て頂き実践的な哲学を学ぶ機会に

 

まず最初に須長先生に哲学対話をする意味について教えて頂きました。

  • 哲学という営み
普通の学問は「知識の体系」といわれ、知識を生産する営みです。しかし、この知識の体系にはいったん身についてしまうとそうとしか思えなくなる「脱げない鎧」のような性質があります。さらに磁力の性質と似た排他性と親和性というものを持ち合わせており、自分の意見に近いものは吸収していきますが、そうでないものははいじょしてしまいます。例として、左翼右翼が挙げられましたが確かにこのコロナ禍のTwitter上ではそのような傾向がよく見られたような気がします。そのような既知の知識を揺さぶるものとして哲学があります。
  • 「問い」を立てること
哲学は答えを出すことよりも「問い」を立てることを大切にしています。
ではどのようなときに使っていくのかというと、たいていの人にとって当たり前であるものが疑問に思えたとき、特に何かにつまずいたときに人は哲学を使わざるをえないらしいです。
最近ふと就活のことなどを考えていると「そもそも何で働くんだっけ」とか「自分ってなにがしたいんだ」なんて考えることがあるのですが、まさに哲学といえるのではないでしょうか。
ですが哲学は数学のように答えが用意されているわけでもなく、すぐ導き出せるわけでもありません。加えて、疑問に思っていることは他の人にとっては当たり前なので共有の難しい孤独な戦いです。私も先程の疑問に答えが出ているわけではなくほとんど疑問を持っただけで終わってしまいます。
問いを立てることによってなじみのあるものを異化することができ、既知の知識に対して揺さぶりがかかります。実際に先週私たちがしたように差別について考えてみた前と後では「差別」というものに対しての捉え方が変わりました。
 
  • 対話のルール
今回やっていった「対話」にはルールがあって、まず対話というのは議論でも会話でもないということです。議論は違う意見同士が主張をしていき会話は意見に分かれることなくラフに話していきますが対話はちょうどその間にあるような存在で同じ方向性の話をしていますがどっちが正しいわけではありません。
その他にもゆっくりでもいいから自分の言葉で話すこと、相手の中にあるものを一緒に探ること、理解できなかったところはもう一度お願いすること、自分の意見が揺さぶられることを恐れないこと、結論を出さないのは安全な殻(逃げ?)にいると言うことになること、しかし結論を急ぎすぎず素潜りのように何度も探ることなどのルールの上で対話をやっていきました。
 
今回の問い
  1. なぜわれわれは「なぜ差別していると」言われたくないのか?
  2. 差別をしたくない場合どうすればいいか?そもそもどうして差別してしまってもいいのか(だとしたら、なせ世の中は「差別してはいけない」と言われているのか)
 
 まず1のなぜ「差別していると」言われたくないのかということについて考えていきました。やはりテキストの文章にも書いてあったように、周りから嫌われたくない、不快に思われたくないという気持ちからきているのではないかと考えました。でもそもそも「差別」って何なんだろうという議論になってきました。明らかに偏った負の気持ちを相手に伝えることは差別とわかりますが不快と感じたときにそれは差別なのかというどこからが差別のラインなのかという線引きが難しく、少し話が行き詰まりました。
2の問いに対してはやはりテキストと同様、心の内に秘めるしかないのではないのかという意見にまとまりました。そしてそもそもなぜ差別をしてはいけないのかという問いに対してはよい子でいるという世の中の定義やその後の自分の人生のためなどの意見が出て人それぞれ違う考えが見られました。
 
対話を終えて私なりに考えて見たのですが、問1も2も自分のためではないのだろうかと考えました。1に対しては仮に差別をしていると言われてしまうとテキストにも書いてあったとおり社会的に抹殺されることになります。差別をしていると言われたくない要因の一つとして自己防衛ではないのかと考えました。2のそもそも差別なぜ差別をしてはいけないのかと言う問いに対してもその後の自分の人生に影響してきたり、自分に返ってきたりする可能性から自分自身を守るためではないかと考えました。
人間だれしも自分が大切なところがあるはずです。
もちろんこれが差別をしない理由の全てではないと思いますが、その理由の1つとしてあるのではないでしょうか。
 
 
今回はここまで
 
 
 
 
 
 
 
 

哲学 わけわかめ

こんにちは

今回のゼミでは教養を学ぶ1回目として「差別」というテーマで哲学を学んでいきました。

いくつかのグループに分かれて文を読み、自分が気になったところなどに印をつけてメンバー間で共有をしていったのですが、文の内容がとっても難しかったです...

まず大前提として「差別」というものは絶対に許されていいものでないと私は考えます。現在アメリカでも白人警官が無抵抗の黒人男性を押さえつけ殺害したとして大きな問題となっていて、悲しい負の連鎖が起きています。

早速感想、意見を綴っていきます。

 

 Aの部分で気になったところは冒頭の

われわれの心に住まう悪意をことごとく消去すべきなのだろうか?

というところです。

私は悪意がことごとく消去されて世界は何か宗教じみていて怖いなと感じたので排除するべきではないと思いました。なぜかというと、その後の文章で

 純粋に(さまざまな理由で)気に入らない他人に禍をもたらそうと企む場合もある。

と書かれているように行動に移すまではいかなくとも、他人を恨んだり、憎んだり、妬んでしまう感情がどうしても湧いてきます。しかし、反対に善意というものも私たちの中にはあります。悪意をうまくコントロールして自分の善意に向き合えるかが大切なのではないでしょうか。

あらゆる悪意とその発露が根絶された理想社会を掲げて現状を嘆くのではなく、自身の心に住まう悪魔と戦い続けること、その暴走を許さずそれをしっかり制御すること、こうした努力のうちにこそ生きる価値を見つけるべきなのだ。人間の悪意を一律に抹殺することを目標にしてはならない。

誤解を恐れずに言えば、悪意のうちにこそ人生の豊かさがある。それをいかに対処するかがその人の価値を決めるのである。

これには何の反論もありません。これが正解と決めつけることは良くないかもしれませんが全くこの通りだと思います。

 

 次はBです。

われわれは事実としてある人に合理的理由あるいは非合理的理由からり不快を感じてしまうものであり、それはどうすることもできない。 

 という一文がありますが、合理的理由から生まれる不快は自分がなぜ不快であるか論理的に認識しているためにどうにかすることは難しいかもしれませんが、非合理的理由はおそらく、妬みなどの自分の感情面のことが多いのではないでしょうか。ここは捉え方によってどうにかすることができるように思えました。例えば数量限定の商品を自分が手に入らず、嫌いな人は手に入れたとします。その人のことを妬むでしょうがそこで、あいつと同じものを買わなくて良かったと割り切ることもできるのではないでしょうか。

⑴個人の快・不快を統制してはならない
⑵だが、不快の無制限の発露、を許してはならず何らかの統制をするべきである。
この対立する2つの命題にはとても納得がいきました。
自分が何を感じようが、どう思おうがそれは自由です。
ですが、それを全て口に出していい訳がありません。何もかも自由に発言、ひょうげんをしていると、時に悲しい出来事を生んでしまいます。私たちには感情がありますが、それと同時に理性というものもあります。荒ぶる感情に対して理性でどう対処するかが大切なのではないでしょうか。また、1つの解決らしきものとして不快を感じていないように振る舞うべきであるというものがありますが不快の原因によってはこれは解決の方法ではないと思います。自分が納得できる理由の不快に関してはしっかりと嫌だ、おかしいと言っていくことが大切なのではないでしょうか。最後の方に書いている通り考え続かなければいけないと思いました。
不快を表出ししないように賢く振る舞っている。なぜならそう振る舞わないと身の危険を招くからであり、社会的に葬り去られるからである。
 この部分には自分ももしかしてこれを恐れていたのかな...と考えさせられました。公認された被差別者、社会的制裁関係なく自分自身の考えで差別をしてはいけないということを考える必要があるなと感じました。
 
 次はCについてです。 
われわれは、ある共同体に所属していることによって、身の安全を得るのであり、心の落ち着きを得る。
まさに人間が社会的動物である所以だなと感じました。そしてアイデンティティは様々な集団に属している束が集まってできているという表現は私が思っていたことと真逆でしたが、どこな納得できるような内容でした。
こうしたことがあってはならないとすら感じている鈍感な(おうおうにして)善人が少なくない。

 ここの郷土愛の話にはとても納得させられました。

私も俗に言う「九州男児」でさらには「薩摩隼人」ですが、確かに自分自身でも郷土愛は強いと感じます。田舎とか言って自虐することもありますが、他県の人にけなされるとどうもイラッとしてしまうことがたまにあります。自分がけなすことは許せても他人にとやかく言われることは嫌だなんてなんとも傲慢...

私は郷土愛がない人に対して特に何も感じないと言いたいところでしたがよく考えてみると口には出さずともどちらかといえばここで書かれている人たちに近かったりするのかもしれません。

 

結婚して子供が生まれたとき、みなの祝福を期待し「大きな顔をして」報告するとき、あなたはすでに(潜在的)加害者なのである。

家族愛の話もまた深く考えさせられる内容でした。

私たちが正統派である、常識であるという確信から当たり前のようにお祝いなどをしていますが、されている本人達の事情を詳しく知っている訳では当然ありません。かといってお祝いしないというわけではありませんが周りの情報を鵜呑みにするのではなく、その情報を自分でしっかりと理解、判断し相手に気持ちを伝えることが大切なのかと思いました。

常識から疑って物事を考える、まさに哲学的な考え方ですね。

 

 最後はDについてです。

意識に基づく差別のばあい、その意識を変えるには、意識というもっともやっかいな相手を敵に回さなければならないからである。

意識と戦うことは本当に難しいことだと思います。実体験でも本や映画などの作品や言葉を見たり聞いたりして頭では「○○すごいな!俺も見習おう!」とわかっていてもそれを身につけさせ意識させるのは本当に難しいです。その日だけで終わってしまうこともあるので、継続的に習慣をつけ意識に埋め込んでいくことが大切ではないかなと思いました。

成績も悪く、素行も悪く、怠け者であるB君を、それでも「人間として」尊敬しなさい、という教師の言葉は、はたしてどのくらい子供たちの心に訴えうるのか、真正面から考察する必要があるように思う。 

私の好きなアニメの中に登場するキャラクターがビスマルク

愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ。

という言葉を言っていますが、子供というのは愚者であるかはさておき、経験によって学んでいき、大人に近づくにつれて経験だけでなく先人達の知識から学ぶことが多いと私は思います。なので、A君であろうとB君であろうと子供というのは経験から学んでいくもので、A君が心の中でB君を軽蔑していてもそれを表に出さなければ問題は起きないでしょうし、いずれ大人になるにつれてA君も軽蔑と言うことが愚かであると気付くのではないでしょうか。私も子供の頃は嫌いなやつの嫌なとこばかり見ていましたが、今はいいところを見ようと努力しています。

 

全文通して感じたのはやはり中の自分、潜在的な自分とどう戦うのかということが大切になってくるのかと思いました。

正直、理解しきれていないところも多々ありますが、久しぶりにこういった頭の使いかたをして新鮮でした。

自分でも書いてるうちに何かいてんのかわかんなくなったりしたりなんかして、まさにこれが哲学だなといったところですね...

なんかもういろいろゲシュタルト崩壊です。

砂糖いっぱい取りたいと思います。

 

 

今回はここまで