古典③ ~続編を考えてみよう~
こんにちは
前回雨のことについて書きましたが、部屋の中で雨が降り出すと当分雨のことは考えたくない気分でございます。
今回は教養回の古典最終回ということで、源氏物語の続編について学び実際に自分たちでも続編を考えてみました。
源氏物語は合計3部作で、1部、2部で光源氏のお話が終わり、3部は光源氏がいなく合った後の物語でNARUTOが終わった後のBORUTO的な感じでしょうか。登場人物は光源氏の子とされているが本当は不倫相手の子である薫、そして光源氏の孫である匂宮の二人が浮舟という女性を奪い合う物語だそうです。話を聞いていると今時のドラマよりもドロドロしててえげつないな...と感じました。物語の流れでいくと浮舟は二人に求婚されたことに対して思い悩み入水自殺を図ったようです。これまたどぎついストーリー...
しかし死にきることができず流れるついた寺で出家し外から遮断された生活を送るようになります。そんな中で薫が浮舟が生きているということを耳にして、浮舟の弟に当たる人物に手紙を私に行かせなんとか薫と会おうとします。しかし浮舟は前の自分に戻ってしまうという理由から家族にも返事をしませんでした。そんなすっきりしない感じで宇治十帖は終了します。
そんな結末に納得できなかった読者が今度は「山路の露」という作品を書いたようです。
というところで今回はこの「山路の露」を私たちだったらどのように作るかということを考えていきました。
まず、続きを見たい読者が書くので話が展開していくと考えて、男の登場人物を追加して作りました。その男は出家先にいる男で密かに浮舟に思いを寄せそして浮舟も密かに心を寄せるという展開を作りました。ちなみに薫は若干ストーカー気味に手紙を送りまくってますがこの男が全て破り捨てています。時間の関係であまりうまく話はまとまりませんでしたが、三部同様すっきりしないような結末になりましたが続編を考えることの難しさを感じました。今回は割と自由に考えていきましたがファンである読者が続編を作るとなると元となる作品の世界観であったり、結末の仕方など本当に悩むだろうなと思いました。私が好きな欅坂46も新しいメンバーが加入した際に先輩達が作り上げたものを壊してしまいそうで怖いとインタビューで語っていて、できあがったイメージを保つことも変えることも本当に大変だと思います。
リアルな第四部としては誰とも結びつかないという結末は変わらないらしく、薫と再開はするそうですが何も起きないようです。
なぜ変わらないのにもかかわらず書いたのかと言うことを考えていくとそれだけ前の源氏物語がすごいとしたいだったり、読者に対しての救いであったりといろいろな見方ができます。直接聞くことはできませんが相当思い悩んだのではないでしょうか。
そして最後にもう一度私たちが古典を学ぶ意味ということを考えていきたいと思います。
僕はやはり自分という存在を豊かにするために学んでいくのではないのかなと考えました。昔の人たちが考えた思想や物語に触れることによって新しい気づきを得て、自分という世界が広がっていくようなそんなことじゃないかなと思いました。
太宰治は日常の生活に役立たないような勉強こそ、将来、君たちの人格を成長させるのだ。大事なのは覚えることではなくカルチベート(才能などをみがく、高めるetc)することだと言っています。
まさにこのような意味で自分をより豊かにしていくには必要な学問だと思います。
三回にわたって古典を学んでいきましたが、これまでの文章を解読するというイメージからなぜ筆者がそのような表現を使ったのか、登場人物達の細かい心情、当時の読者考え方などを学ぶことができて古典の見方が変わりました。
前期はもうすぐ終わってしまいますがもっといろんな教養にも触れてみたいなと感じました!
今回はここまで
古典② ~新海誠作品に学ぶ~
こんにちは
気がついたら2020年ももう半年が過ぎました。
大学生活は過ぎていくのが早いです。
今回は新海誠監督の作品「君の名は」を題材に古典を学んでいきました。
「君の名は」には多くの部分で古典を引用しているところがあるらしく、公式サイトでも古典を意識したことが明かされているようです。
知らない者同士が、お互いに知らない場所で生きていて、もしかしたら二人は出会うかもしれない存在。現実は会えない、でも、何らかのカタチで触れ合う。
単純だけれど、そんな物語を作りたいという事が今作の動機でした。良く考えてみると、それは、僕たちの日常そのものだと思います。今まさに地方の田舎町で生活している女の子も、将来、都会に住んでいるある男の子と出会うかもしれない。その未来の物語を小野小町の和歌『思ひつつ寝ればや人の見えつらむ 夢と知りせば覚めざらましを』(訳:あの人のことを思いながら眠りについたから夢に出てきたのであろうか。夢と知っていたなら目を覚まさなかったものを)を引っ掛かりとして、アニメーションのフィールドの中で描く事が出来ると思いました。
このように「とりかへばや物語」と小野小町の和歌にも着想をえているようです。
「とりかへばや物語」は兄妹を「とりかえたいなあ」という意味の入れ変わって生活をする物語で成立をした後に修正をされた部分があり、原本は残っていません。その理由として昔の人たちが物語を読むときは、現在のように印刷の技術がなかったために手書きで写していたようです。その際、読み手の解釈で書いていくところがあり、どんどんアレンジが加えられて語り継がれていったため修正が加えられた状態で現存しているようです。現代の二次創作と通じる部分がありますね。
小野小町は当時としては前衛的な詩人であったらしく評価はされずとも一目置かれていた歌人であったようで、その小野小町の作品である「夢三部作」の1つ目に
思ひつつ 寝ればや人の 見つらむ 夢と知りせば 覚めざらましを
という歌があります。
意味は
あの人のことを思いながら眠りについたから夢に出てきたのでしょうか。夢と知っていたならば目を覚まさなかったものを。
というもので今私たちが夢に誰かが出てきたときに考えるようなことです。
しかし、昔の人たちにとってこの解釈は違っており、夢に思い人が出てきたときに夢に相手が出てくるのは相手が自分のことを思っているからという解釈だそうです。これには驚きました。現代とは真逆の解釈ですよね。それでも当時の常識であった解釈を疑って新たな解釈を生み出した小野小町はすごいと思います。
君の名はとその他の男女が入れ変わるストーリーに共通している部分として入れ替わった後に周りの人に変に思われ仕草に戸惑う点、そして最終的には社会的に作られたもとの性に戻ることが挙げられました。
違う点としては入れ替わった物同士が恋愛をするというところが挙げられています。新海監督は入れ替わりという表現はとりかへばや物語を引用し恋愛の部分では小野小町の歌を引用していったのだと思いました。
最後に私たちが古典を学ぶ理由が例としていくつか挙げられた中に今の常識を疑うというものがあり、哲学でも鎧を脱ぐことの重要性を学びましたが、まさに小野小町が行ったように当たり前を疑って自分で考えるということがやはり大切であるなと再確認できました。
今回の課題は、
物語を引用しながら表現したい内容を考える
ということで前に一度見たことのあった同じ新海誠監督の「言の葉の庭」という作品を見直しました。
この作品の中では主人公の高校生とヒロインが登場してきます。
主人公は雨が降ったときに庭園のベンチで時間を潰していたのですがあるときヒロインの女性がそのベンチに腰掛けており、雨の日のベンチを舞台に次第に心を通じ合わせていきます。
そして、初めて会った時にヒロインが何者かわかっていない主人公に対して
鳴る神、のす少しと響(とよ)みて、さし曇り、雨も降らぬか、君を留めむ
という和歌を主人公に言って立ち去ります。
作品の内容にかぶらないように和歌だけで調べてみるとこの歌は万葉集の第十一巻に出てくる柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)の歌で
雨が降ったらここにに留まってくれるだろうか。
という意味を持っています。
柿本人麻呂は詳しい生没年、経歴が不詳ながらも多くの作品が万葉集に収められている偉大な歌人のようです。
これをみてヒロインは一体どういう気持ちでこの台詞を言ったのだろうと思いました。
ヒロインは古典の教師で、そのことに主人公は気付いておらず、後に発言の真意として古典の教師と気付かないかなと思って発言したとヒロインは言っていますが、僕は果たして本当にそれだけの意味であったのかなぁなんて感じました。
そこに留まっていたかったという気持ちが少しはあったからその歌が出てきたようにも思えます。
そして、言われた当時は意味がわからなかった主人公ですが、物語の終盤で
鳴る神の、少し響(とよ)みて、降らずとも、我(わ)は留まらむ、妹(いも)し留めば
という最初の歌の返歌をヒロインに対して返します。
この歌の意味は
雨なんか降らなくても、ここにいるよ
となんともキザな返答ですね。
ですが主人公がこの台詞を言っているときは答え合わせとしての返歌だけでなく、主人公の本心からも言っているように感じました。
この作品はBGMが雨の音だけで描かれている場面が多く「雨」が大きなテーマとなっていると思うのですが「雨」という題材を決めた後にこの歌を見つけ引用することにしたのかそれともその逆なのか、個人的に気になります。今回横山先生がおっしゃっていたと通り「雨」は恋愛において重要であったのだなとも感じました。
最後に私が感じたこの作品の表現したい内容として、新海誠監督はこの「雨」に関する歌で限りある時間の中での幸せというものを表現したいのかなと思いました。そして雨は限りある時間ですがまた降ってくる、また何度でも会うことができると言うことを伝えたかったのかなとも感じました。
とてもいい作品なので是非皆さんにも見て頂きたい!
(ちなみにこの作品に出てくるヒロインはチラッと君の名はにも出演しています!)
にしても新海誠監督は古典にインスピレーションを受けている部分が多いのでしょうか。そこの部分もとても気になりました。
前期も終盤にさしかかり課題が密ですが頑張っていきましょう!!!
今回はここまで
古典①
こんにちは
日に日に増していく課題をどう対峙してやろうか考えている内に一週間経ってしまっている今日この頃でございます。
今回のゼミでは教養の2回目で横山先生をお招きして古典が始まりました。
古典というとなんたら活用とかのめんどくさいことを思い出したりますが、高校生の時に学んだ「人間万事塞翁が馬」が私の中では一番印象に残っていて、良いときもあれば悪いときもあるという古典の読み方などの枠を超えた考え方などを学んでいました。
まず、一番最初に出てきた問いが
- 古典は本当に必要なのか
すずりに向かひて
という部分は一体どういうことを表しているのかという部分の解釈は時代ごとに異なっており定まることがないそうです。
ではどうすればここの部分を考えることができるのかという問いが出てきて私は実際に同じ状況になってやってみると考えました。本当のやり方としてはその作者の他の作品の同じ表現がないか、前の時代の人がどのような表現の使い方をしたかという方法があるらしいです。やっぱり昔の人も何かに影響されてそれをオマージュしたりいていたのですね。
ここで米津玄師さんの「Lemon」を例にして引用が説明されたのですがまさかここでLemonが出てくるとは想像もしていませんでした笑
この「Lemon」の歌詞には高村光太郎さんの「Lemon哀歌」に通ずる部分が多く、「光る」であったり「切り分けた果実の片方~」など重なる点も多く本人もインタビューでレモン哀歌の世界観を意識したところがあると語っているそうです。
個人的にはここで語られていた元は人の死を描くことから「Memento」というタイトルにしようとしていたというところに興味が湧きました。おそらくラテン語の「」死を忘るなかれ」という意味のメメント・モリからきていると思うのですがこの単語私の大好きなガンダム00という作品でも出てきていたのでそのことばっか考えてました笑
ガンダムで出てくるメメント・モリは簡単に言うと宇宙から一国を滅ぼすことができるレーザー兵器の名前なのですが制作陣に「死を忘るなかれ」という意図があったのかと考えてみると、まさに現代作品も影響されている部分があるんだなと感じました。
すずりに向かひては万葉集などでもみられましたが源氏物語でもみられたらしくその表現とほぼ完全に一致しているらしく古典の研究者の方々からするとやりやがったという印象なのだとか。
とまあこんな感じで古典のことを学んでいきましたが今はとっくに存在しない人がどのような気持ち、経緯でその表現に至ったのかを考えることはとても難しいけれども面白くも感じましたし、米津玄師さんのヒット曲の中にも古典が隠れていたりしてとても興味深かったです。
次回は大ヒットを記録した「君の名は」を題材に学んでいくそうなので楽しみ!
(ps.僕は大ヒットしたことを毛嫌いして数年後の正月特番で始めて見ました。)
今回はここまで
ゼミ 振り返り中間回
こんにちは
今回のゼミは前回まで学んだ哲学の振り返りと問いについていつも通りグループ2つに分かれて考えていきました。
前回の振り返りとしては対話によって結論を出しはするがそれは区切りであって終わりではなく考え続けることが大切であるということ、否定ではなく批判的な考え方で物事の前提を考えていくということによって固定観念から抜け出した考え方ができるということ、「思考のアレ化」に気をつけるということがありました。
思考のアレ化は「アレ」という簡単な言葉で片付けてしまうことによって言葉の意味合いを考えずに発言してしまうことです。しっかりとその言葉の意味を自分自身で理解した上で発言することが重要になってきます。
私も最近日常の中で言葉の意味であったり、行為の意味などをよく考えているのでこのまま考え続けていきたいです。
今回の問いは
- 経験や体験を通じて成長できる人ってどんな人
グループに分かれてまずどんな人がそうなのか挙げていったところ
- フィードバックをする人
- 人のせいにしない人(自分のことのように考えることができる)
- 経験、体験している状況を楽しめる人
- 目的を持って行動している人
- 素直な人(経験を拒否せずに素直に飲み込む力)
- 経験を積む前よりも良い方向に変化すること
- 前できなかったことができるようになること
- 限界が広がる
哲学対話②
こんにちは
すっかり暑くなって半袖の季節になりましたね。
個人的には湿気に蒸発してほしいです。
今回のゼミでは前回から引き続き哲学対話をしていき、テキストのC、Dの部分を参考に次の問いについて考えていきました。
- われわれは自分が持っているコミュニティに対して、他の人も同じように愛着を持ってもらいたいと思ってしまうのはなぜか?そして、その気持ちは持っていて良いものなのか、それとも制御すべきものなのか?(だとするとどうなるのか?)
- 怠け者のB君を、「人間として」尊敬しなさい、という教師の言葉は、なぜ問題なのか?
- ソクラテス的窮状
- 価値語
- パレーシア
哲学対話
こんにちは。
今週のゼミでは先週から引き続いて「差別」について哲学を用いて学んでいきました。
また、今回のゼミでは哲学を専門にされている須長先生に来て頂き実践的な哲学を学ぶ機会に
まず最初に須長先生に哲学対話をする意味について教えて頂きました。
- 哲学という営み
- 「問い」を立てること
- 対話のルール
- なぜわれわれは「なぜ差別していると」言われたくないのか?
- 差別をしたくない場合どうすればいいか?そもそもどうして差別してしまってもいいのか(だとしたら、なせ世の中は「差別してはいけない」と言われているのか)
哲学 わけわかめ
こんにちは
今回のゼミでは教養を学ぶ1回目として「差別」というテーマで哲学を学んでいきました。
いくつかのグループに分かれて文を読み、自分が気になったところなどに印をつけてメンバー間で共有をしていったのですが、文の内容がとっても難しかったです...
まず大前提として「差別」というものは絶対に許されていいものでないと私は考えます。現在アメリカでも白人警官が無抵抗の黒人男性を押さえつけ殺害したとして大きな問題となっていて、悲しい負の連鎖が起きています。
早速感想、意見を綴っていきます。
Aの部分で気になったところは冒頭の
われわれの心に住まう悪意をことごとく消去すべきなのだろうか?
というところです。
私は悪意がことごとく消去されて世界は何か宗教じみていて怖いなと感じたので排除するべきではないと思いました。なぜかというと、その後の文章で
純粋に(さまざまな理由で)気に入らない他人に禍をもたらそうと企む場合もある。
と書かれているように行動に移すまではいかなくとも、他人を恨んだり、憎んだり、妬んでしまう感情がどうしても湧いてきます。しかし、反対に善意というものも私たちの中にはあります。悪意をうまくコントロールして自分の善意に向き合えるかが大切なのではないでしょうか。
あらゆる悪意とその発露が根絶された理想社会を掲げて現状を嘆くのではなく、自身の心に住まう悪魔と戦い続けること、その暴走を許さずそれをしっかり制御すること、こうした努力のうちにこそ生きる価値を見つけるべきなのだ。人間の悪意を一律に抹殺することを目標にしてはならない。
誤解を恐れずに言えば、悪意のうちにこそ人生の豊かさがある。それをいかに対処するかがその人の価値を決めるのである。
これには何の反論もありません。これが正解と決めつけることは良くないかもしれませんが全くこの通りだと思います。
次はBです。
われわれは事実としてある人に合理的理由あるいは非合理的理由からり不快を感じてしまうものであり、それはどうすることもできない。
という一文がありますが、合理的理由から生まれる不快は自分がなぜ不快であるか論理的に認識しているためにどうにかすることは難しいかもしれませんが、非合理的理由はおそらく、妬みなどの自分の感情面のことが多いのではないでしょうか。ここは捉え方によってどうにかすることができるように思えました。例えば数量限定の商品を自分が手に入らず、嫌いな人は手に入れたとします。その人のことを妬むでしょうがそこで、あいつと同じものを買わなくて良かったと割り切ることもできるのではないでしょうか。
⑴個人の快・不快を統制してはならない⑵だが、不快の無制限の発露、を許してはならず何らかの統制をするべきである。
不快を表出ししないように賢く振る舞っている。なぜならそう振る舞わないと身の危険を招くからであり、社会的に葬り去られるからである。
われわれは、ある共同体に所属していることによって、身の安全を得るのであり、心の落ち着きを得る。
こうしたことがあってはならないとすら感じている鈍感な(おうおうにして)善人が少なくない。
ここの郷土愛の話にはとても納得させられました。
私も俗に言う「九州男児」でさらには「薩摩隼人」ですが、確かに自分自身でも郷土愛は強いと感じます。田舎とか言って自虐することもありますが、他県の人にけなされるとどうもイラッとしてしまうことがたまにあります。自分がけなすことは許せても他人にとやかく言われることは嫌だなんてなんとも傲慢...
私は郷土愛がない人に対して特に何も感じないと言いたいところでしたがよく考えてみると口には出さずともどちらかといえばここで書かれている人たちに近かったりするのかもしれません。
結婚して子供が生まれたとき、みなの祝福を期待し「大きな顔をして」報告するとき、あなたはすでに(潜在的)加害者なのである。
家族愛の話もまた深く考えさせられる内容でした。
私たちが正統派である、常識であるという確信から当たり前のようにお祝いなどをしていますが、されている本人達の事情を詳しく知っている訳では当然ありません。かといってお祝いしないというわけではありませんが周りの情報を鵜呑みにするのではなく、その情報を自分でしっかりと理解、判断し相手に気持ちを伝えることが大切なのかと思いました。
常識から疑って物事を考える、まさに哲学的な考え方ですね。
最後はDについてです。
意識に基づく差別のばあい、その意識を変えるには、意識というもっともやっかいな相手を敵に回さなければならないからである。
意識と戦うことは本当に難しいことだと思います。実体験でも本や映画などの作品や言葉を見たり聞いたりして頭では「○○すごいな!俺も見習おう!」とわかっていてもそれを身につけさせ意識させるのは本当に難しいです。その日だけで終わってしまうこともあるので、継続的に習慣をつけ意識に埋め込んでいくことが大切ではないかなと思いました。
成績も悪く、素行も悪く、怠け者であるB君を、それでも「人間として」尊敬しなさい、という教師の言葉は、はたしてどのくらい子供たちの心に訴えうるのか、真正面から考察する必要があるように思う。
愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ。
という言葉を言っていますが、子供というのは愚者であるかはさておき、経験によって学んでいき、大人に近づくにつれて経験だけでなく先人達の知識から学ぶことが多いと私は思います。なので、A君であろうとB君であろうと子供というのは経験から学んでいくもので、A君が心の中でB君を軽蔑していてもそれを表に出さなければ問題は起きないでしょうし、いずれ大人になるにつれてA君も軽蔑と言うことが愚かであると気付くのではないでしょうか。私も子供の頃は嫌いなやつの嫌なとこばかり見ていましたが、今はいいところを見ようと努力しています。
全文通して感じたのはやはり中の自分、潜在的な自分とどう戦うのかということが大切になってくるのかと思いました。
正直、理解しきれていないところも多々ありますが、久しぶりにこういった頭の使いかたをして新鮮でした。
自分でも書いてるうちに何かいてんのかわかんなくなったりしたりなんかして、まさにこれが哲学だなといったところですね...
なんかもういろいろゲシュタルト崩壊です。
砂糖いっぱい取りたいと思います。
今回はここまで